守屋筑前守(守屋廣治)は、幕末から明治にかけて当神社の祠官を務めた人物です。嘉永5年に従五位下の位階賜り、文久元年に日本諸国神祇道取締方となり、全国の寺社で巻き起こった様々な争論を解決しました。また天理教の黎明期に尽力したことで知られ、今も天理教の信者が社務所にある木像を見学に来られる。

【主な経歴】

文化6年(1809)10月15日に誕生。
文政12年(1829)、父丹後正尚賢の没後、京都吉田神道家から「継目」を許可され19歳で祠官職「筑前守」を受領する。
嘉永元年(1848)吉田神道家から大和国神祗道示論方に任命される。
嘉永5年(1852)に従五位下の位階賜る。
文久元年(1861)に日本諸国神祇道取締方となる。
慶応4年(1868)京都御所御守衛役を勤め、神威隊に加わる。
明治3年(1870)有栖川宮家の祈願所となる。また式上・式下両郡の神職組合頭となる。
明治12年(1879)死去。

なおこの木像は、慶應4年(1868)戊辰2月、浪花の彫工 相野直信氏によってつくられました。