壬申の乱

白村江(はくすきのえ)の敗戦後の667年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が即位して天智天皇となり、都を近江の大津京に移し、わが国最初の庚午年籍(こうごねんじゃく)という戸籍や、近江令(おうみりょう)という法典をつくり、改新の政治をおしすすめました。しかし671年に天智天皇がなくなると、翌年に皇位をめぐる争いがおこりました。
すなわち天智天皇は晩年に、実弟の皇太子大海人皇子(おおあまのみこ)をさしおいて、伊賀の采女(うねめ)とのあいだに生まれた大友皇子(おおとものみこ)を太政大臣とし、天智の後継者にしようとしたことに端を発して、朝廷の臣は二流に分かれ、その多くは大海人皇子に同情があつまったといわれます。それは天智の革新政治をこころよく思わなかったものが増えていたからです。
やがて大海人皇子は僧形となって吉野宮に隠れ住みます。672年6月22日、みずから妃の菟野讃良(うののさらら)、皇子草壁・忍壁(おさかべ)をはじめ舎人(とりね)らをともなって、伊賀から伊勢をへて美濃へ出て、近江と東国を遮断する軍事行動に出ました。これに対して大伴連馬来田(まぐた)・吹負(ふけひ)、三輪君高市麻呂、鴨君蝦夷など大和の豪族らは、大海人皇子の挙兵に応じて、近江朝に反旗をひるがえし、飛鳥古京を占領しました。しかも7月にはじまる大海人方の攻撃によって、近江路、伊賀・鈴鹿方面で勝利をあげましたが、大和では大伴吹負らの軍は敗北しました。河内方面からも近江軍は南大和に侵入してきました。
【大和の決戦】
それに続く大和決戦の様子を、『日本書紀』は生々しく記しています。
すなわち将軍大伴吹負が大敗を喫したとき、大海人皇子方の千余騎の騎馬軍団(隊長・置始菟(おきそめのうさぎ))の援軍を得て、部隊を再編成して、軍を上ツ道・中ツ道・下ツ道にそれぞれ分けて駐屯させました。この三つの道は奈良盆地を南北につらぬく三本の幹線道路で、上ツ道は現在の桜井市から盆地東端の山ぞいを北上し、天理市をへて奈良市の東側にいたる幹線です。中ツ道は飛鳥から天香久山と耳成山の間を通って、奈良市のほぼ中央部にいたる道です。下ツ道は橿原市八木から盆地の中央部を北上して、奈良市の西部を通って山城方面にいたる道です。
大和の総指揮官吹負は、上ツ道と下ツ道を指揮下の部隊におさえさせ、みずからは中ツ道の守備にあたりました。
おりから近江の将の犬養連五十君(いぬがいのむらじいそきみ)が、中ツ道に進撃して釆て、村屋(田原本町蔵堂)に駐屯し、別将の廬井造鯨(いほいのみやつこくじら)に、二百の精兵を率いさせて、吹負の陣営を襲わせました。しかし近くの大井寺の奴(使用人)の徳麻呂らが先鋒となって、弓を射かけたので、鯨の軍はすすむことはできませんでした。この日、別の近江軍が上ツ道に押し寄せて来たので、ここを守っていた三輪君高市麻呂と置始連菟はこれを防ぎ、箸墓の付近(桜井市箸中)でおおいに近江軍を破り、鯨の軍の後続をたちました。そのため鯨の軍はちりぢりになって逃走し、鯨は馬が深田にはまったが、抜け出して敗走し、それ以後近江軍はもうこなくなったと記しています。この大和決戦の主戦場は、上ツ道の箸墓付近、中ツ道の村屋神社から、竹田の原・大福・香久山にいたる付近と考えられています。
7月22日、大海人の軍は瀬田の戦いで勝利をし、大勢が決まりました。大友皇子は自害し、大津宮も兵火にかかって焼け落ちます。大海人皇子はその年の冬、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に皇居をつくり、翌年正月そこで即位し、これから14年におよぶ天武天皇の政治がはじまります。天皇は革新政治の完成につとめ、皇室の地位を強化し、新しく飛鳥浄御原律令を制定し、強力な中央集権国家のしくみを完成させました。

大海人皇子が隠れ住まわれた吉野川上流の国栖付近