守屋筑前守(守屋廣治)は、幕末から明治にかけて当神社の祠官を務めた人物です。嘉永5年に従五位下の位階賜り、文久元年に日本諸国神祇道取締方となり、全国の寺社で巻き起こった様々な争論を解決しました。また天理教の黎明期に尽力したことで知られ、今も天理教の信者が社務所にある木像を見学に来られる。

【主な経歴】
文化6年(1809)10月15日に誕生。母新泉村山澤利助の娘きみ。幼名三代枩、その後、勝治、豊治、求馬と改名する。
文政12年(1829)父丹後正尚賢の没後6年経って、8月に京都吉田神道家から「継目」を許可され祠官職「森本筑前守」を受領する。(19歳)
天保11年(1840)2月21日、神主職許状を受領。(30歳)
天保13年(1842)12月、吉野郡象谷村(現 吉野町喜佐谷) 櫻木神社の神職継承争論を解決する。(33歳)
天保15年(1844)4月、宇智郡霊安寺村 御霊神社の神主と村・宮寺との争論を解決する。(34歳)
嘉永元年(1848)12月、吉田神道家から「大和国神祗道示論方」に任命される。(38歳)
嘉永2年(1849)正月7日、境内古木伐採権をめぐって森屋郷中・森講・宮寺と対立。2月17日、奈良奉行所へ出訴。7月13日に勝訴。
嘉永5年(1852)3月31日、従五位下の位階賜る。大神朝臣廣治と名乗る。(42歳)
安政6年(1859)7月26日、浄福寺の離檀に成功する。(49歳)
万延元年(1860)8月、現在地(宮寺跡)に転居。(50歳)
元治元年(1864年)10月26日、大和神社で天理教との騒動「大和神社のふし」が起きる。(54歳)
文久元年(1861)正月、吉田神道家から「日本諸国神祇道取締方」に任命される。(51歳)
文久元年(1861)2月、飛騨国の社家争論を解決する。(51歳)
慶応4年(1868)2月、京都御所御守衛役を勤め、神威隊に加わる。(58歳)
慶応4年(1868)4月、近江國坂本日吉神社襲撃に参加。大和國の神仏分離を指導する(58歳)
明治3年(1870)正月、有栖川宮家の祈願所となる。6月、式上・式下両郡の神職組合頭に任命される。(60歳)
明治6年(1873)7月、長男勝治(廣嗣)死去。(63歳)
明治12年(1879)9月3日死去。(69歳)
以後次男の秀雄が継承し現代も家系は続いている。
なおこの木像は、慶應4年(1868)戊辰2月、浪花の彫工 相野直信氏によってつくられました。


























