宮司家の祖先にあたる物部守屋など物部氏の祖神を祀る

祭神:「御炊屋姫命宇麻志摩遲命 配 物部守屋連
宮司家に残っている伝承によると、古墳時代に、仏教の礼拝を巡って 大臣・蘇我馬子を中心とする崇仏派(仏教)と、大連・物部守屋を中心とする排仏派(神道)の間で起きた宗教戦争「丁未の乱(ていびのらん)」において、現在の大阪府八尾市付近で物部守屋が討死して物部軍は敗北。その後一族は現在の奈良県王寺町辺りまで敗走の後に四散し、美濃や諏訪方面に散って行きました。その中に物部守屋の長男(雄君)が息子(押勝)を連れて当時の村屋神社の宮司家(当時は室屋姓)まで逃げて来られ、しばらくの間匿っていました。その後、雄君は自分の息子である押勝を後取りのいない室屋家に託し、美濃へ発ったと記されている。物部守屋公の孫を室屋姓に変え宮司家の当主として育てられ今日まで血筋が続いているということになっている。ただし雄君も押勝も約80年後の壬申の乱で活躍した人物であるので信ぴょう性に欠ける部分もある。
また、この神社は堀で囲われ、池に浮かぶ島のように見えることから弁天信仰が起こり、市杵島姫神社(弁天さん)とも呼ばれている。毎年7月7日に夏祭り(弁天祭)があり、宮郷で獲れた野菜などを持ち寄って品評会などを行なっていた。

社務所にて令和2年4月4日より頒布いたしております

 

令和5年4月竣工
7月7日は、年に一度行われる境内摂社 物部神社のお祭りで、古来から「弁天祭」と言われてきました。
物部神社なのに全くご祭神の異なる弁天祭と呼ばれる理由は、鏡池と呼ばれた堀の中に島にあったことから弁天信仰が広まり、後に弁財天(市杵島姫様)も合祀されたことで、別名 市杵島姫神社ともいわれるようになり、江戸時代より弁天祭を呼ばれるようになったようです。かつては宮郷の氏子様に夏野菜などの農作物を競って奉納していただき、品評会なども行われていました。
また、同じく境内摂社 服部神社には、天地開闢、宇宙創造の神 アメノミナカヌシ様をお祀りし、同じく境内摂社 村屋神社ではかつて、夏に星祭りが行われ、弁天祭が7月7日の七夕と同日ということもあり、近年より七夕の笹飾りも奉納させていただいておりますので、令和5年より「弁天七夕祭」と改名させていただきました。
このお祭りは夜のお祭りなので、神事は神職のみで行い人知れずひっそりと毎年行われ、境内のライトアップは夜8時まで行っております。